エッセイ

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働いてさえいれば、食えた
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働いてさえいれば、食えた

日本人の"ゆるさ"を、環境から想像してみる 大学の日本史の講義で使うテキストを読んでいた。本郷和人さんの『日本史でたどるニッポン』。淡々とページをめくっていた手が、ある一節で止まった。日本人の性格の話だった。 本郷さんはこう論じている。私たちの住むこの島は、地政学的に外から攻め込まれることが少なかった。気候も、シベリアの寒さやインドの暑さのような極端さがなく、おおむね温暖だ。水源に恵まれ、農産物もよく育つ。つまり——働いてさえいれば、食えた。 食うために誰かと激しく奪い合う必要が薄かった、という話だ。 ここで一つ、言葉を置いておきたい。ある集団の性質を、その土地の気候や地形から説明しようとする見方を「環境決定論」と呼ぶ。人の気質は環境が作る、という考え方だ。本郷さんの語り口も、この系譜に近いところにある。恵まれた土地が、激しく争わない気質を育てたのではないか、と。 対比として持ち出されるのが、中国の科挙だ。試験一発で官僚の地位が決まる、苛烈な実力主義の制度。ここでは血筋より結果がものを言う。生き残るために、人は競争する。いっぽう日本では、地位が親から子へと受け継がれる世襲の文

KOUKI TOMIOKA KOUKI TOMIOKA
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なぜ「推し」や「MBTI」で自分を定義する?
エッセイ

なぜ「推し」や「MBTI」で自分を定義する?

なぜ私たちは「推し」や「MBTI」に自分を見出そうとするのか ― 所属を失った時代のアイデンティティ探し ― 最近、「推し活」や「MBTI診断」が当たり前のように話題になっています。 SNSのプロフィールには「INFP」「ENTJ」といった文字が並び、好きなアイドルやアニメキャラクター、アーティストを中心にコミュニティが形成されています。 もちろん、それ自体は楽しい文化です。 しかし、少し引いた視点で見てみると、そこには現代社会の大きな変化が映し出されているようにも感じます。 なぜ私たちは、自分がどこに属しているのかを知りたがるのでしょうか。 なぜ「私は○○タイプです」「私は○○推しです」と表明したくなるのでしょうか。 それは単なる流行ではなく、「自分は何者なのか」という問いに対する現代人なりの答え探しなのかもしれません。 昔は「所属」が先にあった 少し前の時代まで、人は自分が何者なのかをそこまで深く考えなくても生きていくことができました。 なぜなら、所属が先に与えられていたからです。 例えば、 地域社会 家族 学校 会社 宗教 地縁や血縁 などです。

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