電車の中で、ふと画面を見た。ショート動画を開いてから、もう40分が経っていた。
面白かったかと聞かれても、うまく答えられない。次々に流れてきた動画の内容は、ほとんど覚えていない。それなのに、指はまだ画面の上でスワイプを続けようとしている。疲れているはずなのに、なぜまた開いてしまうのだろう。
SNS疲れ、と一括りにする前に
「SNS疲れ」という言葉は、いろいろな原因を一つの箱にまとめてしまいがちだ。人間関係の比較、通知の多さ、返信のプレッシャー——原因は一つではない。
今回はその中でも、いま最も注目されている要因、ショート動画への依存に絞って考えてみたい。
情報は、もともと命に関わるものだった
なぜ、大した内容でもない動画を見続けて、私たちは快感を覚えてしまうのか。
一つの見方として、こう考えられている。通信も文字もなかった時代、人は情報を得ることで命を守っていた。あの川は増水していて危険だ。あの方角には猛獣がいる。そうした情報を早く手に入れられるかどうかが、生死を分けた。だから人間の脳は、新しい情報を得ること自体に報酬を感じるよう、長い時間をかけてつくられてきた——という説がある。
その回路は、いまも変わっていない。動画の中身が命に関わるかどうかは、脳にとってあまり重要ではないのかもしれない。「新しい情報が入ってきた」という事実そのものが、報酬系を刺激してしまう。だから、内容を覚えていなくても、指は次を求めてしまう。
途切れないように、設計されている
ショート動画のインターフェースも、この性質とよく噛み合っている。
スワイプ一つで、次のオチがすぐに来る。区切りがない。次はどうしよう、と考える間もなく、もう次の動画が始まっている。この「止まる隙を与えない」設計は、単純だが、よくできていると思う。
その情報に、価値はあるのか
一方で、流れてくる中身についても、立ち止まって考えたくなることがある。
誰かの美談、あるいはそれらしく作られた感動の演出。真偽の見分けがつきにくいAI生成の動画も、いまは同じタイムラインに混ざっている。こうした情報に、どれだけの価値があるのだろうか。
ただ、SNSにはもう一つの顔もある。何かを世の中に届けたいとき、これほど強力な手段はない。どんな内容が反応を集めるのか、どんな構成や演出が効くのか——発信する側として観察すれば、それは学びにもなる。受け手として消費するだけの時間と、送り手として観察する時間とでは、同じSNSでも意味が違ってくる。
際限なく見るか、時間を決めて楽しむか
だらだらと流し見てしまう使い方は、あまり良い状態とは言えないかもしれない。ただ、時間を決めて楽しむのであれば、それは害のあるものではないと思う。差が生まれるのは、内容そのものよりも、使い方の側にあるのかもしれない。
何でも知れる時代だからこそ
考えてみれば、私たちは恵まれた時代に生まれている。知りたいことは、たいてい調べればわかる。
だからこそ、情報を追いかけること自体には、以前ほどの価値がなくなってきているのかもしれない。それよりも価値を持ちはじめているのは、自分が何を好きで、何になりたいかを知ることだ。情報の濁流に流されるのではなく、自分の手で自分の人生を選び取っていく。そのための時間を、どれだけ確保できているだろうか。
今日、最後にスワイプをやめたのは、何がきっかけだっただろうか。