2025年の秋、ある大手の退職代行サービスの運営会社が、弁護士法違反の疑いで捜索を受けたと報じられた。サービスそのものの是非を超えて、「退職を、他人に代わってもらう」という行為がここまで生活に入り込んでいたのか、と多くの人が改めて気づいた出来事だったように思う。
退職代行とは、辞めたい本人に代わって、第三者が会社へ退職の意思を伝えるサービスのことだ。料金は数万円程度。新入社員を含む若い世代を中心に、利用は年々広がっている。
そして、この話題には決まってひとつの言葉がついてくる。「根性がない」「キャリアに傷がつく」。自分で言えないなんて――という見立てだ。間違いとは言いきれない。けれど、「代行を使う=根性なし」と一括りにできるのかどうかは、もう少し丁寧に見たほうがいい気がする。
そもそも、会社の許可は要らない
まず、見落とされがちな前提から確かめておきたい。
期間の定めのない雇用(いわゆる正社員)であれば、退職の意思を伝えてから2週間が経てば、理由を問わず辞めることができる。会社の承認は必要ない。就業規則に「1ヶ月前までに申し出ること」「会社が承認したとき」と書かれていても、その部分は基本的に法律のほうが優先される。
つまり、「上司が退職の書類を上に上げてくれない」「会社が辞めさせてくれない」――そうした状況の多くは、法律上の事実というより、職場が作り出している圧力なのだ。意思が会社に届いた時点で、退職は成立しうる。
これは大事な補助線になる。辞める権利は、もともと本人の手のなかにある。にもかかわらず人が代行に向かうのなら、その人を押しているのは制度ではなく、職場の空気か、本人の限界か、そのどちらかだということになる。
「根性なし」という見立てを、点検する
ここで、通説とは少しずれるデータがある。
ある調査では、退職代行の利用者はむしろチームワークを重んじ、責任感が強い傾向が見られたという。前職に「申し訳なさ」を感じていたり、自分を「裏切り者」のように感じている人も少なくなかった。世間で語られがちな「身勝手で我慢が足りない人」という像とは、ずいぶん違う輪郭だ。
利用の理由を尋ねた調査でも、上位に来るのは直属の上司との関係の悪化や、ハラスメントの経験だった。引き留められて言い出せない、伝えた後にもめそうで怖い――そうした声が並ぶ。
責任感が強い人ほど、辞意を口にした後の引き留めや叱責、後任への引き継ぎといったやり取りを、重く受け止めてしまう。だからこそ、最後のひと押しを誰かに託す。その構図を見ると、「根性なし」という一語ではどうにも説明しきれない。
キャパシティと、環境
判断を分けるのは、おそらく二つの軸だ。利用者自身の状態(キャパシティ)と、置かれた職場の環境。
心身が本当に限界に達しているなら、代行は使っていい。むしろ使うべき場面だと思う。無理に自分で伝えようとして、さらに削られていくくらいなら、距離を取る手段があることのほうがずっと健全だ。
一方で、稀なケースとして、本人の側に課題があり、職場の環境にはとくに問題がない、という組み合わせもありうる。世の中はそう単純に「ブラック企業 対 被害者」で割り切れるわけではない。
大切なのは、これが白か黒かではなく、濃淡のあるグラデーションだということだろう。同じ「代行を使う」でも、限界の淵にいる人と、軽い気持ちの人とでは、意味がまるで違う。
「キツくないけれど、言えない」
では、その濃淡の薄いほうの端をどう見るか。
たとえば、仕事自体はそれほど辛くない。ただ苦手な人がいて、辞めたい。でも自分では言い出せないから、代行に頼んで去る。これはもう珍しいことではないし、ひとつの選択として成立してはいる。
ただ、現実として企業側も身構え始めている。突然の退職に備えて、採用時に職歴や転職回数をより厳しく見るようになった、という会社は確実に増えている。代行を通した退職が、次のキャリアでまったく無関係でいられるとは限らない――そういう懸念が語られるのは、根拠のない脅しとも言いきれない。
それでも、ここで誰かを断罪したいわけではない。むしろ気になるのは、素直な人ほど、この「自分の弱さ」を必要以上に責めてしまうことだ。背負わなくていい後ろめたさまで抱え込んでしまう。
もし伝えられる余力が残っているなら、強気に、自分の言葉で辞意を告げて、自分の手で退職を勝ち取る。それは振り返ったときに、ささやかな誇りになるかもしれない。けれどそれは、あくまでひとつの価値観だ。他人を測るための物差しではないし、ましてや限界にいる人に向ける言葉ではない。
公平性は、誰を「審査」することなのか
利用が広がるほど、別の論点も浮かぶ。代行を使われた会社の側に立てば、ある日突然第三者から連絡が来て、本人とは話せない。印象は良くないだろう。乱用への懸念も理解できる。
ここで、「第三者の調査機関を設けて、その審査を通った人だけが代行に準ずるサービスを使えるようにすべきではないか」という発想が出てくる。本当に困っている人に、必要なサービスを届けるための公平性の担保――その問題意識自体は、まっとうだと思う。
ただ、立ち止まって問い直したくもなる。退職はもともと権利だ。権利を行使するのに審査が要るとしたら、それは結局、人を代行へと追いやった「言い出せなさ」を、別の窓口で再生産することにならないだろうか。限界にいる人ほど、その審査の前で消耗してしまう気もする。
おそらくレバーを掛ける場所は、「利用者を選別する」側ではなく、「事業者を適正化する」側にある。実は、その線引きはすでに存在している。退職の意思を伝えるだけなら誰でもできるが、有給消化や未払い賃金、退職日の交渉といった「法律事務」に踏み込めるのは弁護士や労働組合に限られる。資格のない業者がそこを越えれば、非弁行為として問われうる。冒頭の捜索も、その境界線をめぐる出来事だった。
公平性を保つ仕組みが要る、という直感は正しい。ただその矛先は、助けを求める人ではなく、助けを売る側に向くほうが筋がいいのではないか。
自分が、今どこにいるか
結局のところ、本当に問われているのは制度の設計ではなく、もっと手前のことかもしれない。
自分はいま、限界にいるのか。まだ踏ん張れるのか。それとも、ただ向き合うのを避けているのか。――この見きわめを、自分自身でできているかどうか。
限界だと正直に認めて代行を使うことも、まだいけると判断して自分で伝えることも、どちらも立派な「自己認識」だ。後悔の少ない選択は、たいてい、自分の状態を正確に把握できているところから生まれる。逆に言えば、自分が今どんな地点に立っているのかが見えていないまま下した決断は、選び方そのものに後で引っかかりが残りやすい。
辞めるべきか、どう辞めるべきか。その答えは人によって違う。けれど望む未来を手繰り寄せるための最初の一歩は、たぶん誰にとっても同じだ。自分の状態を、正直に知ること。
あなたは今、どこに立っているだろう。