スマートフォンのスクリーンタイムを開く。
「今日の使用時間は、5時間12分」
その数字を見ると、少し使いすぎたような気持ちになる。
昨日より30分多い。SNSを1時間以上見ている。週平均も少し伸びている。
画面を見ていた時間が数字になると、長ければ悪く、短ければ健康的であるように感じてしまう。
けれど、その5時間の中身が、本を読んだ1時間と、仕事でデザインをしていた1時間と、家族と話した30分と、目的もなく動画を眺めていた1時間だったとしたら。
それらをすべて「スクリーンを見ていた5時間」とまとめてしまっていいのだろうか。
一枚の画面に、いろいろな時間が入っている
少し前まで、生活の中の道具はもっと分かれていた。
本を読むなら本があり、映画を見るならテレビがあり、誰かと話すなら電話があった。写真を撮るならカメラを使い、知らない場所へ行くなら地図を開いた。
今は、その多くが一枚の画面の中に入っている。
スマートフォンひとつで、本を読み、ニュースを調べ、写真を撮り、音楽を聴き、誰かと話し、買い物をし、仕事をすることまでできる。
それなのに利用時間を測るときだけは、それらがすべて「スクリーンタイム」という一つの箱に戻される。
紙の本を2時間読んで、テレビを2時間見た人に対して、「今日は紙とテレビを4時間使いました」とまとめることはあまりない。
けれどデジタルになると、それが普通になる。
問題は、スクリーンタイムという数字が間違っていることではない。
その数字だけでは、そこで過ごした時間の中身までは分からないことだ。
同じ2時間でも、同じではない
近年の研究でも、スクリーンの影響を単純に使用時間だけで捉えるのではなく、その中で何をしているのかを区別して考える必要性が指摘されている。
文章を書く。問題を解く。誰かと話す。ゲームを操作する。
こうした時間では、画面から情報を受け取るだけでなく、自分自身も継続的に働きかけている。
一方で、次々と流れてくる動画や投稿を眺め続ける時間では、画面側から提示されるものを受け取る割合が大きくなる。
だからといって、能動的な使い方なら良く、受動的なら悪い、と単純に分けられるわけでもない。
何も考えず映画を見る時間が、疲れた一日の大切な休息になることもある。
一日中パソコンを操作して仕事をしていれば、どれだけ能動的でも身体は疲れる。
年齢や睡眠、運動、見る内容、生活環境によっても意味は変わる。
それでも少なくとも、
「何時間画面を見たか」だけでは、その時間の質までは分からない。
ということは考えてよさそうだ。
画面を使っていたのか、画面に使われていたのか
同じSNSを40分使っていても、その40分は同じではない。
好きな作家について調べる。
仕事の参考資料を探す。
友人から届いたメッセージに返事をする。
それもSNSの時間になる。
一方で、通知を一つ確認するつもりだったのに、気づけば40分経っていた、ということもある。
表示された投稿を見て、その次を見る。
動画が終わると、次の動画が始まる。
おすすめされたものを眺め続けているうちに、そもそも何をするためにスマートフォンを開いたのか忘れてしまう。
記録上は、どちらも同じ40分だ。
けれど、自分の感覚としてはかなり違う。
違いの一つは、
次に何をするかを、自分で決めていたかどうか
なのかもしれない。
目的があって画面を開き、目的を終えたら閉じる。
そのとき、スクリーンは道具として機能している。
反対に、通知をきっかけに開き、おすすめされるまま次のコンテンツへ移動し続けていると、いつの間にか自分の時間の使い方を画面側に決められている。
「画面を使っていた時間」と、「画面に使われていた時間」。
スクリーンタイムという数字には、この違いは表示されない。
デジタルを減らせば、それでいいのだろうか
スマートフォンとの距離を見直す方法として、デジタルデトックスという言葉も定着した。
SNSをしばらく休む。
通知を切る。
寝室へスマートフォンを持ち込まない。
意識的に画面から離れることは、自分の時間を取り戻すための一つの方法だと思う。
ただ、デジタルを使う時間そのものを減らすことだけが目的になると、少し窮屈になる。
仕事で一日中パソコンを使う人もいる。
デジタルで絵を描く人もいる。
オンラインで授業を受ける人もいる。
遠く離れた家族と、画面越しに話す人もいる。
そうした時間まで短くすれば、生活が豊かになるとは限らない。
むしろ考えたいのは、
デジタルをどれだけ減らすかではなく、デジタルとどう関わるか。
ということなのだと思う。
「何時間」から、「どんな時間だったか」へ
スクリーンタイムを見るとき、数字の横にもう少し違う問いを置いてみる。
その時間、自分は何かを作っていただろうか。
それとも、流れてくるものを受け取っていただけだろうか。
自分から画面を開いただろうか。
それとも、通知に呼び戻されただろうか。
終わる時間を自分で決められただろうか。
それとも、いつの間にか時間が過ぎていただろうか。
そして、画面を閉じたあとに何が残っただろう。
知識かもしれない。
作品かもしれない。
誰かとの会話かもしれない。
ただ楽しかったという感覚でもいい。
反対に、何を見ていたのかよく思い出せず、疲労感だけが残っていることもある。
そうした違いはスクリーンタイムのグラフには現れない。
けれど、自分とデジタルとの関係を考えるなら、使用時間よりもずっと大切な情報なのかもしれない。
自分にちょうどいいデジタル生活
スクリーンタイム5時間。
その数字自体が悪いわけではない。
昨日より増えたことを知れば、自分の生活を振り返るきっかけにはなる。
ただ、その数字だけを見て「今日は良くない一日だった」と決める必要もない。
その5時間で、
何を見たのか。
何を作ったのか。
誰と話したのか。
何を考えたのか。
そして、その時間を自分で選べていたのか。
そこまで見て初めて、自分にとってのスクリーンタイムが見えてくる。
デジタルとの良い関係とは、画面を見る時間をできるだけ短くすることではないのだと思う。
必要なときには使い、必要がなくなれば離れる。
便利だから使うこともあれば、あえて使わないことも選べる。
誰かが決めた「適正な時間」に自分を合わせるのではなく、自分の生活にちょうどいい距離を探していく。
スクリーンタイムという数字は、そのための一つの手がかりにはなる。
でも、それだけではもう足りない。
これから必要なのは、どれだけ画面を見たかではなく、その時間を自分のものとして過ごせていたかを見ることなのかもしれない。
参考資料
1. From screens to cognition(2025)
2. Passive and active screen time relate differently to attention in preschool children(2026)